常陸土岐氏の支配領域を広めた 土岐治英(はるふさ)ってどんなひと?
『りゅうほー』7月前半号では、龍ケ崎城主・土岐胤倫(たねとも)と龍ケ崎鎮守八坂神社の関わりが特集されていましたね。胤倫が龍ケ崎城主となった背景には、父である江戸崎城主・土岐治英(はるふさ)の意向がありました。土岐治英とは、どのような人物だったのでしょうか。
「土岐系図」(『寛政重修諸家譜』収録)によれば、治英の父・治頼(はるより)は斎藤道三によって国を追われた美濃守護土岐頼芸(よりのり)の弟です。彼は、遠く美濃(岐阜県)から常陸土岐氏の養子に入り、江戸崎城(稲敷市)を本拠としました。大永3年(1523年)の屋代要害合戦(屋代要害:市立城ノ内中学校が立つ場所で、市民遺産「屋代城の土塁」が残されています)で筑波(つくば市)の小田氏に勝利するなど、江戸崎から小野川を越えて支配を広めます。
治英が史料に初登場するのは、龍ケ崎市馴馬町にある国指定重要文化財・来迎院多宝塔の相輪に刻まれた銘文です。相輪とは、多宝塔の屋根の上にある装飾物のことで,治英の名前はその最上部「宝珠」にみえます。銘文の一部を見てみましょう。
「常陽河内郡馴馬郷惣守護従清和天皇五代之後胤土岐頼光公自尓以来十有余霜之□氏土岐美作守治頼嫡男大膳大夫治英朝臣于戈徐納希代廟塔修繕之為壇越應此光力郡庄泰平枝葉繁永崇敬无他異者乎… 弘治弐年五月吉日」
この銘文から、治英が弘治2年(1556年)5月に多宝塔を修繕し、龍ケ崎村を越えて馴馬村まで土岐氏の支配領域が広がっていたことが分かります。
赤字の部分が、なんと全て治英のことを指しています。ずいぶん長い自己紹介ですね。この自己紹介文を紐解いてみましょう。
まず「清和天皇五代之後胤」は、自分が清和源氏であることを主張しています。注目すべきは「大膳大夫」という官職名で、これは位階で言えば,正五位上に相当します。父・治頼の官職名「美作守」が従五位下の位階に相当することから、この時すでに父よりも上の官位を得ていることがわかります。つまり治英は、この頃の北関東の戦国大名・佐竹氏や宇都宮氏、結城氏に匹敵する地位を得ていたことになります。
青字の部分「河内郡馴馬郷惣守護」の「守護」は、治英の自称です。相輪にある銘文には、修繕事業に関わった人々の名前が刻まれています。自分はこれらの人々の上に立つ存在であることを示し、父・治頼から治英が家督を譲られたことを内外に強くアピールしています。
その後、治英は常陸南部の土岐氏支配を一層強固なものにしようと、永禄10年(1567年)に次男の胤倫を龍ケ崎城主として配置し,龍ケ崎城下の整備が行われるのです。
実は治英は、あの織田信長が何度も苦戦を強いられたことで知られる越前(福井県)の大大名・朝倉義景とも意外なつながりがあり,互いに文書交流もしていました。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、義景を演じるユースケ・サンタマリアさんの演技も見どころですね。次回は、朝倉氏と土岐氏の関係を、義景が治英に宛てた書状から読み解いていきましょう。(T・I)
【参考文献】
龍ケ崎市史編さん委員会 1998年『龍ケ崎市史 中世編』龍ケ崎市教育委員会
宝珠は、屋根の上にある相輪の最頂部にあります。
銘文の刻まれた宝珠の複製は、当館の常設展でご覧いただけます。