龍ケ崎村の村役人の娘から、仙台藩主の側室へ ー山戸たけの数奇な人生ー
仙台藩と龍ケ崎
戦国時代に「独眼竜」として名を馳せ、仙台藩祖となった伊達政宗。龍ケ崎が彼の領地であったことをご存じの方も多いでしょう。
徳川家康が龍ケ崎村を含めた常陸国で一万石余を政宗に与えたのは、江戸幕府が開かれてから3年後の慶長11年(1606年)3月3日のことでした。現在 県立竜ヶ崎第二高等学校の建つ高台の西側麓には、飛び地支配のための役所「陣屋」が置かれました。
その後およそ262年間、この『仙台藩常陸国龍ケ崎領』は続きます。
たけ、龍ケ崎から江戸へ
政宗の後、二代藩主となったのは次男の忠宗(ただむね)です。忠宗には正室の振姫のほかに4人の側室がいました。そのなかの一人、小笹の方【こざさのかた/のちの慶雲院(けいうんいん)】は、龍ケ崎村の出身です。幼少期は「たけ」と呼ばれていました。
龍ケ崎が仙台藩領となったころ、たけの父・山戸土佐が義兄の師岡長門と共に村役人を務めていたことは、政宗の側近(佐々若狭)の出した書状で分かっています。
ところが 元和2年(1616年)6月29日、たけが4歳のときに、彼女の人生を大きく変える事件が起こりました。突然、父・土佐が藩主の命で処刑されてしまったのです。
土佐の罪状についてはさまざまな説があり、一説には将軍家の御鷹場に無断で立ち入ったことが罪に問われたともいわれていますが、定かではありません。
この一件により、土佐の息子・久三郎は隣村の桂昌寺(現・龍ケ崎市八代町)に逃げた後、下総国印旛郡手賀村(現・千葉県我孫子市)の親類を頼って落ち延び、その地で没したとされています。たけは母・まさと共に、藩主のもとに召し上げとなり、江戸の藩邸に引き取られました。
忠宗との出会い
そのたけが、なぜ藩主の側室となったかについては推測の域を出ません。
現在の宮城県黒川郡大和町宮床には、政宗の正室・愛姫(めごひめ)がたけ母子の召し上げを聞き及び、たけを引き取り藩邸で侍女として仕えさせ、後に忠宗の側室にするよう進言したという話も伝わっています。
『伊達治家記録』によれば、忠宗は藩主となる前から、鷹狩りや病気療養などで何度か龍ケ崎を訪れていました。市立愛宕中学校の建つ高台の東側にある愛宕神社は、忠宗が寛永18年(1641年)に建立したものと伝えられています。もしかすると忠宗は、母・愛姫に仕えていたたけの生い立ちを聞いており、たけの故郷である龍ケ崎に特別な思い入れを持っていたのかもしれません。
側室となったたけは、忠宗にとっての8男・宗房(むねふさ)と9男・宗章(むねあきら)を産み、「小笹の方」と呼ばれるようになりました。
晩年のたけ
万治元年(1658年)に忠宗が60歳で逝去すると、たけは46歳で出家して「慶雲院」となり、仙台城を離れます。
晩年は、伊達一門・宮床伊達家の祖となった宗房の所領である宮床で暮らし、宗房の建てた慶雲寺で忠宗の菩提を弔いました。貞享3年(1686年)、宗房が先に亡くなった後は、「慶雲寺」の寺名を「覚照寺」と改め、その後も2人の菩提を弔い続けます。
元禄16年(1703年)、たけは孫(宗房の子)の吉村(よしむら)が仙台藩五代藩主となったのを見届けると、3年後の 宝永3年(1706年)11月14日に 94歳で大往生を遂げました。
現在も、宮床伊達家の菩提寺・覚照寺本堂には「慶雲院殿緣嶽玅因大姉 淑霊位」と書かれた位牌の横に穏やかな表情のたけの座像があり、住職により毎日供養されています。
次回は、龍ケ崎とゆかりの深いたけの息子・宗房と、孫で仙台藩5代藩主となった吉村について見ていきましょう!
【参考文献】
・龍ケ崎市史編さん委員会編『龍ケ崎市史 近世編』龍ケ崎市教育委員会 1999年
・八木 勤次著『名君伊達吉村の祖母 慶雲院小笹の生涯』 1990年
・龍ケ崎市歴史民俗資料館編『伊達政宗にはじまる龍ケ崎領』2006年