幕末・明治の歌舞伎役者と龍ケ崎
明治時代に人気を博し,「劇聖」と謳われた歌舞伎役者、九代目・市川團十郎。彼と龍ケ崎には縁があることをご存じですか?
医王院の擬宝珠に刻まれた銘文
砂町のお寺・医王院本堂にある高欄(手すり)の擬宝珠の一つには、九代目・市川團十郎と龍ケ崎の縁がうかがえる銘文があります。一部を見てみましょう。
冒頭の「猿若町」は現在の台東区浅草、「狂言座」は、歌舞伎劇場の河原崎座のことです。「仕切場」はお会計をする所で、「大茶屋」は高級料理店、「拾軒」「拾五軒」茶屋は、庶民向けの小茶屋を指します。「出方」は案内や雑用をする運営スタッフです。
青字の「河原崎権之助」は座元(劇場所有者)兼太夫元(興行責任者)の六代目・権之助。次の「若大夫長十郎」は、息子の三代目・河原崎長十郎です。
実はこの長十郎、権之助の実子ではありません。実父は、七代目・市川團十郎。長十郎は生後7日で、河原崎家の養子に出されていたのです。
河原崎家と龍ケ崎の縁
長十郎を養子に迎えた権之助は、弘化2年(1845年)、長十郎が7歳で初舞台に立った年に、龍ケ崎の呉服商の娘・みつと結婚します。伝承によると、みつが湯島聖堂(現在の文京区)へ行儀見習いに行っていた際に、権之助に見初められたのだとか。
そして嘉永2年(1849年)、権之助とみつの間に、のちに女形で著名となる初代・河原崎國太郎が生まれました。
河原崎家を襲った悲劇
嘉永5年、長十郎は「権十郎」と改名します。
しかし、慶応3年(1867年)、権十郎とともに舞台を沸かせた弟・國太郎が、突然19歳の若さで亡くなります。さらにその翌年には、自宅に強盗が押し入り、父・権之助が殺害されてしまうという大事件が起こりました。
その翌年、明治2年(1869年)に、権十郎は養父の名跡「七代目・河原崎権之助」を32歳で襲名しました。
権之助、市川家へ
明治7年(1874年)、権之助は河原崎家の名跡を親族に譲ります。そして実兄の八代目・市川團十郎の死から長らく後継者不在となっていた市川宗家に戻り、「九代目」を襲名したのです。
その後、明治20年(1887年)には明治天皇への天覧劇を実現させ、宗家のお家芸「歌舞伎十八番」を補足する形で「新歌舞伎十八番」を選定。時代考証を重視した演劇に取り組み、歌舞伎の近代化や役者の社会的地位向上に大いに貢献しました。
團十郎も演じた「女化稲荷月朧夜」
明治18年(1885年)初演の歌舞伎の演目には、龍ケ崎市馴馬町の女化神社に伝わる狐伝説を河竹黙阿弥が舞台化した「女化稲荷月朧夜」があります。
團十郎は、同時期に活躍した五代目・尾上菊五郎、初代・市川左團次とともに「團菊佐」と呼ばれ一世を風靡しました。この「女化稲荷月朧夜」は、3人が共演した演目の一つです。
上演前には、女化狐役を演じた五代目・菊五郎が門人たちを連れて女化神社に参拝した記録が史料に残っています。
龍ケ崎の劇場でも公演か
明治33年(1900年)、龍崎鉄道が開業します。翌年の明治34年に作成された双六「常州龍ケ崎町勉強家案内寿語録」では、龍ケ崎駅(今の関東鉄道竜ヶ崎線竜ヶ崎駅)を振り出しに、途中「演劇場 龍ケ崎座」の絵があります。
「龍ケ崎座」のマスには、ひいき客による何本かの幟の中に、「市川団十郎さん江」と書かれた幟(旗は反転した状態で描かれています)が立っています。この頃に、九代目・團十郎が龍ケ崎で公演したのかもしれません。
医王院の擬宝珠は、嘉永5年(1852年)に河原崎父子が奉納したものと思われますが、今もその目的は分からないまま、謎に包まれています。
確かなことは、歴史上名高い九代目・團十郎には、龍ケ崎出身の養母がいたこと。そして、五代目・菊五郎が女化神社に参拝していたということです。
市内には、二人の足跡を感じ取ることのできる場所があります。皆さんも訪れてみてはいかがでしょうか。
【参考文献】
・龍ケ崎市史編さん委員会編『龍ケ崎市史 近世編』龍ケ崎市教育委員会 1999年
・龍ケ崎市史編さん委員会編『龍ケ崎市史 近現代編』龍ケ崎市教育委員会 2000年
・国史大辞典編集委員会編 『国史大辞典』吉川弘文館 1984年
・鈴木 久「龍ケ崎市歴史民俗資料館講座資料~江戸歌舞伎と龍ケ崎~」2013年